コソダテノスキマ

子育ての隙間です。育児に関するあれこれです。

写真に撮られる乳児を見ていて思うこと

写真に撮られるのが苦手である。

ささみ自身が撮影されることを厭う、という意味ではない。私を撮影されるのが、という意味でもない。妻を除いたほかの誰かが、ささみを写真に収めようとするその光景が、苦手なのである。

 

親類だとか友人だとか、幾人かが妻を見舞いに、そして、ささみを見に訪れた。

気を遣ってくれているのかもしれないが、皆決まって「かわいいねえ」と言いながら携帯電話を取り出して、ぱしゃりぱしゃりと、そのカメラでもってささみを写真に収めていく。その様を目にする度に、なんとも遣り切れない気持ちになるのである。

当然のことながら、彼らは毎日ささみと対面するわけではない。その撮影からひと月後か、三ヶ月後か、一年後かはわからないが、次に再会したときに、ささみは、その写真とはすでに別のささみである。

彼らはおそらく、それを見越して、今日のささみを写真として未来へ残そうと試みている。だからささみは、彼らにシャッターを切られる度に、過去へと追いやられてしまうのである。ささみは、今、ここにいるのに。目の前で、今、生きているのに。

それで私は、なんだか遣る瀬なくなってしまうのだ。

 

今、目の前にいるささみ。今日も、訪れた知人によって、幾度も過去へと追いやられてしまったささみ。彼女を、なんとか今に繋ぎとめようとして、だから、だから私は――。

私は今日も、自分の携帯電話を取り出して、ぱしゃりぱしゃりと、ささみを撮影しまくっているのである。